自家治療または劇場版「フリクリ オルタナ」について

昨日鑑賞したフリクリオルタナについて
未だ感情の置き場がみつからないのでセルフメディケーションとして、書く。

以下所謂ネタバレについては配慮していない点留意していただきたい。

 

なお、本文についてはフリクリの続編としてではなく単にスクリーンで上映された新作アニメーションに対しての不満として書きとくに前作との比較はしない。

 


先ず本作の最大の不満はそのシナリオなのだが、
かといって画の方が賞賛できるクオリティだったかというと、果たしてそうでもない。
気持ちよさよりも動かしやすさを優先した平坦なレイアウト、透視図法を無視し無限に広がる水面。
修正が追い付いていないのか予算か、名の知れたアニメーターが多数参加しているわりにあらぬ方向に曲がる関節(食事のシーンが多いが口に運ぶ手がかなり危うい)、体重の入っていない動作も多い。
(テンポ感や変顔、キメのアクションの配分、画面から感じる熱量などは『このすば』あたりを比較対象として持ってくるとわかりやすかもしれないと思った。)
ただ、劇場でディスクを販売していることからもわかるとおり、実のところ劇場用アニメではなくOADの特別上映がこの『劇場版「フリクリ オルタナ」』であることは留意したい(実際、欧米ではテレビシリーズとして放映されたとのことである)。

それと、これは劇場側の問題かもしれないが終始画面にjpg圧縮したような虹色の縦ノイズが載っていて鑑賞中非常に気持ちが悪かったことも付け加えておく。


さて、本題に入る。
本作のシナリオにおいての問題点はペッツの行動にある。
母親との不仲が示唆され家にもあまり帰らないという彼女が、両親とともに火星に向かう際のはそれなりの逡巡があったはずだが作中その悩みが描かれることは一度としてない。
また、居場所ない彼女が自身の秘密基地のような場所に向かうシーンがあるのだがいくらなんでもそれは薄っぺらではないだろうか(ぼうっ、としていたので勘違いで破壊された部室だったのかもしれない)。
こんなところで女子高生がそう何度も夜を明かせるのか?
せめて恋人の家などであればヒジリーとの対比も生まれ奥行きが出たと思うのだが。なにせ華の17歳なのだ。
中盤以降、家庭にも不満を抱え、友人ともその場限りの相槌を打つ彼女が3者にそれぞれ思い出の品を残す(交換する)が正直あってもなくてもいいようなものばかりだ。
主人公がその思いの丈をぶちまける相手としては、あまりにも空虚に映る。
(どうでもいいけどカナブンが母親に連れられた際ペッツの家でリュックを下ろしてるはずだがいつ回収したのだろう?)

 

対するカナブンは反対に、圧倒的、理不尽な暴力から逃げ惑うひとびとを良しとせず、強大な力(特異点を出現させるほどの!)をもっていままでどおりの平穏を望み行使する。その姿は多数にとって悪そのものである(実際、その暴力でもって自身のメンター:ハル子を時空の彼方に吹き飛ばしているがやはり一切の悪びれがない)。彼女には『劇場版魔法少女まどか☆マギカ 新編』における暁美ほむらのような描かれ方こそふさわしかったのではないだろうか。

 

かように、この二人は最初から最後まで釣り合っておらず、単に最初にできた友人としてのみ接続している。これがこの作品のバランスの悪さの最たる要因のように感じられる。

 

ところで鑑賞中もうひとつ気になった点を追記しておく。彼女らの住む土地の描かれ方である。開店もしていないショッピングモール(実際にはメディカルメカニカのアイロンなのだが)が商店街を圧迫しているというのがすでにどうもおかしいのだが、その商店街、駅前アーケードなのだ。つくりが。だというのに電車が描かれることはなくこの街はロードサイドにはカラオケがあり、コンビニが点在するシュリンクした地方として機能しているように描かれる。遠景には緑の稜線がひろがり、空白を挟んで反対には海と島が置かれる(海辺へと向かうグラデーションが無い)。ホールではファッションショーの地区予選がひらかれ、予選だというのに世界的なデザイナーが列席している。ここは、いったいどこなのだろう???

 


まったくの門外漢のくせにネチネチと書いたが、作画については4話をピークに5話6話は比較的安定しているように感じ、それぞれの話数においても目を奪われるようなカットは数多くあった。
また、東京芸大大学院修了制作にてポスト・ガイナックス的なすさまじく爽快な作品を制作していた植草航氏が本作のエンディングアニメーションを飾っていたのが個人的にはすごくよかった。

 

さて、最初に書いたがこれは自身のセルフメディケーションのためのテキストであり、結論めいた結びはない。これでおわりである。